コロナウィルス感染者と警戒されてばい菌扱いされた
タイ北部のヴィパッサナー瞑想寺ワット・タム・ウアに滞在して10日が過ぎた。
寺に滞在中、かなり体調が悪くて後半は瞑想もできずに、部屋で寝る毎日になっていた。熱が出る日も多く、原因不明で意識は朦朧として食欲も無く、微熱がずっと続くような日々だった・・・
寺を去る前の日に、高熱にうなされた。ドミトリーで一人でうなっていると、心配してくれた同室の欧米人が、食事を持ってきてくれたり、中国人の王さんも心配してくれて、水をくれたりマッサージしてくれたり、かなり世話になってしまった。
その頃から、中国の武漢でコロナウィルスの拡大が始まっていて、王さんは毎日ニュースを見て、「帰れない」と怖がっていた。韓国人のチョイさんもコロナのニュースをホットな話題として、夢中になっていたが、私はあまり興味が無かった。
しかし、原因不明の熱に侵されていると心配になってくる・・・
コロナウィルスのニュースはたちまち寺の滞在者にも広がり、「中国人に近づくな」というような見えない差別を感じていた。
高熱があることをルームメイトに伝えると、そのルームメイトは看護師のインターンである女性を連れてきた。
彼女は、首から聴診器をぶら下げてマスクをして現れ、サニタイザーというアルコール消毒液を私にぶっかけた。まるでばい菌のように扱われたがしょうがないと思うしか無かった。
今思えば、その頃のタイ北部の山の中に感染者が居るはずは無かったが、ニュースを見てみんなパニックになっていたのだろう。
そして、その看護師にも原因はわからなかったし、彼女は「明日、メーホンソン(一番近い町)の病院に行きなさい」と言うしかなかった。
それは強制的であり、脅迫的であり、迫害、隔離、自分のそばから危険になるものを排除したいという欲求が感じられた・・・
私は「わかった」と言って、眠った。
ソンテウでパーイへ
私は朝、目覚めると調子が良かったので、その女性の言うことを聞かずにパーイへ行くことにした。
封筒にお布施の封筒に1000バーツ入れて、ボランティアのスタッフに渡した。
そして、朝7時に来る黄色いパーイ行きのソンテウに乗り込んだが、満員だった。中には、機能のドクター風の女性も乗っていて、全員にマスクを配っていた。それは、自分のためなのか、相手のためなのか、どちらでもあることは明らかだが、色んなわだかまりがあって、私は沈黙した・・・
同じ日に、日本人で仲良くしていた京都の誠実な男性と、名古屋から来た20代のオルタネイティブな男性も一緒にパーイに行くソンテウに乗っていた。
ソンテウに窓は無く、朝早かったので山の中の気温は低く皆凍えていたが、時間が経つに連れて、だんだん暖かくなってきた。
ワット・タム・ウアからパーイへは、3時間ほどで到着した。
今回の旅では2年ぶりとなるパーイのバス停は、ウォーキングストリートの中心地にあり、少しテンションが上がり、日本人の彼らと食事に行くことにした。
名古屋の彼のおすすめのカオソイ屋さんがバス停のすぐ近くにあって、量は少ないけど40Bでカオソイが食べれた。
京都のM君はパーイも北部タイもタムウアも初めてだったが、名古屋のD君は二回目だそうだ。名古屋のD君は、日本人が毎年主催している音楽祭「シャンバラまつり」を目指していて、私と同じ目的だったので通じ合えたし、京都のM君もとてもピュアな人で、今回は仕事の休暇で来ていたのでイベントには参加できないとのことだった。
私たちは、いったんそれぞれの宿にチェックインしに行き、夕食を一緒に食べようと再び集まることにした。
私が予約した宿は、一泊120Bで中心地から1kmほど歩いた場所にあるドミトリーだった。
ミンゲストハウス
中国人のアルバイトの若い女性が笑顔で出迎えてくれて、ボロボロのドミの小屋に案内してくれた。それはベトナム戦時中の野戦病院のようなとてもキレイとは言えない部屋だったが、パーイでは個室意外はそんなものだった。
となりのベッドには中国人の女性サイクリストが滞在していて、とりあえずまた調子が悪くなってきたので、一眠りすることにした。
https://www.mingguesthouse.com/ja-jp
Hakuna Matata
夜、彼らと集合しウォーキングストリートを歩きながら、BBQなどを買い食いして楽しんだ。M君はここパーイの素敵な町並みと雰囲気に目をキラキラさせていた。
そして、ビールを飲みたいと言うことになり、バーストリートへ行ったのだが、人は少なく、誰もいないブラックライトで光り輝く一つのバーに入ってみた。
店員から「選曲してくれ」と言われて、タブレットでYouTubeを選ぶと自分の好きな音楽でDJできるというシステムなのだ。
みんなで、DJして楽しんだ夜だった。
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