ダイトウア キョウドウ センゲン

大東亞共同宣言プロパガンダ雑誌とポスター

ダイトウア キョウドウ センゲン

ダイトウア キョウドウ センゲン
ダイトウア キョウドウ センゲン

大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)は、1943年(昭和18年)11月6日に大東亜会議にて採択された共同宣言であり、東京・帝国議事堂で同年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択された。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、陪席者(オブザーバー)として出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明した。次いで日本の東條英機内閣総理大臣が自由インドへの強い支援を会議で表明、大東亜会議は閉会した。

Wikipedia

大東亜共同宣言の参加国は、日本国、中華民国(南京)、タイ王国、満州国、フィリピン共和国、ビルマ国(ミャンマー)。

宣言全文

そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

1. 大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2. 大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

3. 大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

4. 大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

5. 大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。

ドクリツ シンワ
ドクリツ シンワ

「日本ツヨイ」「日本ト ドウメイ ヲ ムスンダ チュウクァミン國」「サカエ ユク マンシウ國」「ドクリツ シタ フィリピン國」「國ガ ヒロク ナッタ タイ國」「ドクリツ シタ ビルマ國」「シアハセ ニ ナッタ ジャワ ヤ マライ ノ 人々」「イギリス ヲ オヒハラハウ ト シテ ヰル インドグン」

ドクリツ シンワ

イマ マンシウ國 デハ、ミナ チカラ ヲ アハセテ ハタライテ ヰマス。日本國ト チュウクァミン國トハ、ドウメイ ヲ ムスビマシタ。フィリピン國ト ビルマ國ハ ドクリツ シマシタ。タイ國ハ 國ガ ヒロク ナリマシタ。ジャワ ヤ マライ ノ 人々モ、タイセツナ ヤクメ ニ ツイテ ハタライテ ヰマス。インド モ イギリス ヲ オヒハラハウ ト シテ ヰマス。コレカラ ダイトウア ノ 國國ハ、ソレゾレ リッパナ 國ニ ナリ、タガヒ ニ ナカヨク スルノ デス。

私タチ ノ ダイトウア
私タチ ノ ダイトウア

私タチ ノ ダイトウア ヲ、私タチ ノ 手ニ カヘサウ ト、日本 ハ 立チ アガリマシタ。ソシテ、ツヨイ 日本グン ハ、テキ ヲ ダイトウア カラ オヒハラヒマシタ。

ゴラン ナサイ
ゴラン ナサイ

ゴラン ナサイ。アメリカ ヤ イギリス ヤ オランダ ハ、ダイトウア ノ 私タチ ヲ、グンタイ ノ チカラ デ オサヘ ツケ、コンナ ニ ワルイ コト ヲ シテ ヰタ ノ デス。

キョウソン キョウエイ
キョウソン キョウエイ

キョウソン キョウエイ

ダイトウア ノ 人人 ハ ムカシ カラ タダシイ ココロ ヲ モッテ ヰマス。ソレゾレ リッパナ コトバ、リッパナ シュウネウ ヲ モッテ ヰマス。

コトバ ハ チガヒ、シュウケウ ハ チガッテ モ、私タチ ハ タダシイ ココロ デ、キョウダイ ノ ヤウニ ナカヨク シマセウ。タノシミ モ クルシミ モ トモ ニ シマセウ。

アメリカ ヤ イギリス ヤ オランダ ハ、ダイトウア ガ サカエル コト ヲ オソレテ、 私タチ ヲ タガヒ ニ アラソワセタ コト ヲ ワスレテ ハ ナリマセン。私タチ ガ ナカヨク シ、タガヒ ニ タスケアヘバ、私タチ ハ カナラズ シアハセ ニ ナリマス。

セカイ シンウン コウケン
セカイ シンウン コウケン

セカイ シンウン コウケン

ダイトウア ノ 私タチ ハ、チカラ ヲ アハセテ アメリカ ヤ イギリス ヲ ウチホロボシマス。シカシ、セカイ ノ ヨイ 國國ト ハ ナカヨク シマス。私タチ ハ、一シャウケンメイ ベンキョウ シテ、私タチ ノ スグレタ ブンクァ ヲ セカイ ニ ヒロメマス。

マタ ホカ ノ 國國ニ タリナイ ヒツエウナ サンブツ ヲ オクッテ ヤリマス。ソシテ セカイヂュウ ヲ モット モット ヨク スル ノ デス。サア、ミンナ デ アシオト タカク ススミマセウ。

ボクラ ノ ブタイチャウサン
ボクラ ノ ブタイチャウサン

ボクラ ノ ブタイチャウサン

ボクラ ノ ブタチチャウサン、ツヨイ ニッポン ノ ブタイチャウサン、オウマ ニ ノッテ パカパカパカパカ。ボクラ ガ ケイレイ ヲ シタラ、オウマ ノ ウヘ カラ ニコニコニコニコ、ブタイチャウサン モ ケイレイ ナサッタ。ボクラ ノ ブタイチャウサン、ヤサシイ ニッポン ノ ブタイチャウサン。

ブンクヮ コウヤク
ブンクヮ コウヤク

ブンクヮ コウヤク

アメリカ ヤ イギリス ヤ オランダ ハ、私タチ ガ ドンナ ニ ベンキャウ シテ モ、ハタライテ モ、シアハセ ニ シテ クレマセン デシタ。シカシ、コレカラ ハ ハタラケバ ハタラク ホド、ベンキャウ スレバ スル ホド、シアハセ ニ ナリマス。

ヨク ベンキャウ シマセウ。ヨク ハタラキマセウ。シシテ、ダイトウア ノ ブンクヮヲ イヨイヨ サカン ニ シマセウ。ダイトウア ノ 人々ガ タガヒ ニ ハナシアウ コト ノ デキル ヤウ ニ、日本ゴ ヲ マナビマセウ。

コメント

カタカナと旧漢字の組み合わせに違和感があるし、メッセージの背景の意図が用意に掴めてとても恐ろしく感じます・・・

中でも「僕らの部隊長さん」には、「強くて優しい日本の兵隊を尊敬し、従え」という意味が込められていることがわかります。

画像引用:https://po-ru.com/misc/manifesto-for-greater-east-asian-co-operation

日本国内戦時中のプロパガンダポスター

  1. 「北満の㴁野へ!!」満州開拓青少年義勇軍募集
    北満とは満州のこと。この頃の日本は正義と発展と援助の名の下に、アジアの国々へ足を伸ばしていました。それがその地域にとって良かった事なのか、悪かった事なのかわかりませんが、私が満州から来た青年に最近出会って感じた事は、彼らに敵意どころか、日本人にとても友好的で優しくしてもらったという事実でした。
  2. 「230億我らの攻略目標 国民貯蓄230億円」
    当時の日本政府は戦争でとにかくお金が足りなかったようです。「銀行に230億預けろ!金が欲しい!」という意図が伺えます。
  3. 強く育てよ御国の為に」厚生省
    更には戦争するには人間の数が欲しかったので、このような「産めよ増やせよ」というポスターができたのでしょう。政府の欲望が紙面となって後世まで残されて、更にベビーブームのしわ寄せが、70年後の現代にやってきました。
  4. 赤十字デー「戦線に銃後に愛の赤十字」日本赤十字社
    1933年に設立された日本赤十字社のポスターですが、ようは戦線でボランティアをする軍医や看護婦の募集ですね。
  5. 「海軍甲種飛行豫科練習生募集」海軍省
    零戦で特攻するパイロットが足りなかったのでしょうか・・・このポスターを見るだけで、パイロット達の悲しい結末が思い浮かべることになり、悲しくなります。
  6. 「大日本は神国なり 神國民の家庭には必ず神棚を設けて伊勢神宮を奉斎致しませう」皇紀二千六百年記念 神奈川縣神道併合會
    神の国なので負ける事は無いと誰もが信じていたのでしょう。神でも仏でも負ける事はあるのです。
  7. 「打ちてし止まむ」第三十八回陸軍記念日 陸軍省
    こういった軍人募集の張り紙を見て、奮起して戦地に赴く若者が多く居た事でしょう。私がこの時代に生きていたならば、必ず応募したでしょう。
  8. 「空だ男のゆくところ」大日本飛行協會
    素敵なコピーですね。思わず入隊したくなりますが、飛行部隊に入るのは至難だったことでしょう。入れたとしても、散り逝って海の藻くずとなるものも多かったでしょう。
  9. 日本少年 THE NIPPON SHONEN 特別付録東郷元帥直筆額面
    アメリカのプロパガンダポスターでは、日本人を出っ歯で目が飛び出た不細工な黄色人として描かれているのと比べると、対照的で面白いです。美少年という概念は江戸時代から受け継がれてきた感覚なのでしょう。
  10. 支那事変 聖戰博覧會
    1938年に兵庫県で大阪朝日新聞が開催した聖戦博覧会は、150万人の収容できる球場で行われた。

昭和12年7月、芦溝橋事変勃発、戦雲は翌月第二次上海事変へとひろがり、国内は戦時体制へ移行、昭和13年3月には国家総動員法も強行制定され、戦局は長期化の様相を呈した時期の博覧会であった。聖戦という言葉は死語になったが、当局には国策に沿った便利な言葉であった。この博覧会はこんな折りに開催されたのである。会場は阪急西宮北口の球場及び外園約10万平方メートル、そのうちの球場全体2万平方メートルが戦場大パノラマとなった。会場入り口には実物大の北京の生陽門がつくられ、スタンドは人造の山とし、背景には北支の山々が描かれた。フィールドは上海のクリークで、観客は山と山の間を通りながら、さながら実戦を見るようにつくられた。外園には模擬の野戦陣地として、各種のトーチカ、防空壕、塹壕など、そのほか近代機械化部隊の演習も公開された。これほどの大きいパノラマは数ある博覧会のなかでも初めてで、以後の記録にもない世界一の大パノラマであった。

NOMURAから引用

画像引用:https://bensei.jp/?main_page=wordpress&p=8337

第二次大戦米国国民感情操作プロパガンダ

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